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3:35 ごあいさつ みなさんこんにちは。寝屋川・恩地川流域環境フォーラムの尾崎です。 きょうは、大東市の様々な遺跡、史跡を見ていきたいと思います。 大東市と言いますのは大阪市内の東部、飯盛生駒山系の東部に位置するところにありまして南側には東大阪市、北側に四條畷市に挟まれたところが大東市です。 今日は「人・まち・自然のつながり」ということで昔大東市にマッコウクジラが回遊していたというお話をしていきたいと思います。 0:40 飯盛山系上空から見た・・平野部の歴史遺産と各地域 (写真)これは飯盛山系の麓、昭和17年の航空写真です。赤のラインは阪奈道路で昭和33年2月25日に有料道路として開通いたしました。この地図に示してありますように堂山古墳群をはじめ飯盛山系麓には様々な遺跡と神社仏閣をが点在しています。 続きましてこれは、昭和22年にGHQアメリカ軍司令部によって撮影された写真です。黒い線は大阪外環状線(170号線)で昭和40年に開通、青い線は江戸時代(当時の)深野池の東の境界です。赤い線は約5500年前縄文時代の中頃に海が大阪、河内湾がせりつめていたところでです。 次の写真は、大東市文化財保護推進会という会が地域の歴史を色々と見ていこうと、深野池の西側の境界と東側の境界を自転車に乗って先輩たちと地道に調査しまして線で表したものです。現在の地図に記しているのでよく分かると思います。 3:35 地球環境変動 07:14:00 私たちの大阪平野を見ていきますと ①古代大阪平野の時代(日本列島が大陸とつながっていた寒冷期の時代) 古代大阪平野時代と言われていますが、約2万3000年前は私たちの大東市には大きな古深野沼という湖がありました。交野市あたりから四條畷市それから大東市と東大阪市に至る深野沼が生まれていたわけですが、この当時から人類が生活をし、ナウマンゾウが生活をしていたあたりになると思います。 ②古河内平野の時代     (07:58) 約1万2000年前、古河内平野の時代といわれておりますがこの時代から徐々に極寒期から最終氷期に近づいてくる気候になっていきます。気温も上昇し海面は少しずつ上がっていきます。でこの時代なんですが大東市の中垣内遺跡でナイフ型の石器が出てきています。これはあの先ほどの二上山の噴火で生まれたサヌカイト石でつくられていて発掘されています。押型文という特殊な土器も発見されています。 ③古河内平野から河内湾へ   (09:01) 続きまして縄文時代の早期、約9000年前になると背面がリアス式の海岸のようにだんだんと山に入り組んできています。もうこの時代には寺川遺跡、鍋田川遺跡、宮谷遺跡と色々な遺跡が点在しています。そして先ほどのサヌカイトの有舌尖頭器という特殊な動物の出るのような形の大きな矢尻も大東市の北条の宮谷古墳群から発見されています。おそらくを棒状のものにくくりつけて動物を捕獲していたのかなと思われます。当時の古代人縄文人はこの深野沼を中心に生活の拠点を置いていたと思われます。 ④河内湾の時代      (10:22) そして縄文時代の中頃なんですが5500年前この時代にはもう、大阪湾から河内湾と生駒山の山裾までで海水が入り込んできています。私たちの大東市もこの大型のマッコウクジラ、大型のエイなんかもこの河内湾を回遊していたと言われています。自然堆積層の所からマッコウクジラの骨が発見されています。先ほどの外環状線の道路を作られた時にブルドーザーで大東市から東大阪市の布市町あたりで自然堆積層の砂地あたりからマッコウクジラの骨が発見されています。東大阪市の郷土資料館で常設展示されていますのでまた興味のある方は見に行っていただきたいなと思います。そして大阪市自然史博物館でもマッコウクジラの骨が展示されています。地下鉄今里駅あたりで地下鉄工事の時にミンククジラの骨も発見されています。 河内湾の時代を横から見ると   (11:54) 横から当時の模様を見ますとちょうど上町半島(台地)の右側、現代の大阪城がある地点ですが、非常に南北にせり立った半島があってその中海となっているわけです。現在でもその面影が残っていて大阪城からJR森ノ宮の駅に歩いて行くとゆるやかな坂になっています。これは内海で非常に緩やかな波際だったのでそういう形になっています。谷町4、6、7丁目あたりから西の方におりますとすごく階段が多いわけです。急な階段が多いですね。当時は波がせり立ち打ち上げられていたので岸壁のような形になった状態になっています。 ⑤河内湖の時代      (13:09) 今から縄文時代の後期から弥生時代の見ていきますと徐々に河内湾から河内湖という形に小さくなってきています。水の力はすごいもので淀川、大和川、それから生駒飯盛山脈から流れてくる水によって土砂が流されて(土石流)こういうデルタ地帯になってきているのです。 北新町遺跡が調査された折に、珍しい翡翠(ヒスイ)の緒締(おじめ)形勾玉が発見されています。この辺りは当時はデルタ地帯にあたる所で、河内湖の水際で生活用具の何かを洗っていたのか魚を捕っていたのかわかりませんがおそらく落としたんだろうとわれています。 もう一つは石剣です。以前は海の底であった大東市の新田北町でサムカイト石で作られた石剣が見つかっています。この石剣の根元に木を紐で結んでおそらくを当時の人は木舟に乗って、当時回遊していたウシサハラなどといった巨大魚を((イラストの)下の人が泳いでいるのと比べるとかなり大きいですが)捕獲するために木船から投げた槍がおそらく外れて湖の底に沈んだものと思われます。 こういったことを専門に調べておられた学者さんがおられまして地質学者の梶山彦太郎さんと市原実さんです。約2万年前のウルム氷河期の時代から縄文時代を経て現在まで克明に調査されたことで「大阪平野の発達史」が明らかになりました。 上町台地と河内湖の時代に生息したセタシジミというシジミは現在も琵琶湖に生息していますが、元来の日本のシジミは((写真の)一番左側にあるように)色が非常に黒いです。外来種といわれるタイワンシジミはやや色が薄く、その間の雑種も生まれてきていますが、淡路町のあたりでこのセタシジミが生息をしていた事が発見されたわけですので河内湖は真水であったということですね。 16:50 古墳群と遺跡について <河内湖の時代(縄文時代後期から弥生時代)遺跡> 古墳群と遺跡について見ていきたいと思います。先程の写真ですが丸く円を描いているところが堂山古墳群です。そしてその堂山古墳群の隣あたりに鍋田川遺跡があります。鍋田川遺跡は古墳時代の前、弥生時代の様々な遺物が発見され、特に金属文化の証とも言われる羽口が出土しています。 弥生時代の中垣内遺跡からは石包丁それから石斧・土器片も発見されています。中垣内遺跡は外環状線の際ですけれども(このイラストは)当時はこのあたりまで湖が来ていてこういう生活様式で人々が暮らしていたのかなという想像の図です。(高床式住居に)水際のところで丸木船が見えますが湖の生物、魚介類なんかを取りながら生活していたのかなと思われます。 鍋田川遺跡から非常に珍しい占いに使用する卜骨(ぼっこつ)それから石製鏡、骨製品、鹿の角などが土器と共に出てきています。(上の写真)鹿の角を刻んでいますがこれをどのように使用するかといいますと、この刻んでいるところに細い棒を滑らすとビヨン、ビョンと音がなるわけですね。それからその下(の写真)に猪の骨の卜骨(ぼっこつ)があります。卜骨(ぼっこつ)というのは焼いた鉄を骨に当ててその焼きの割り(割れ目)から今年はお米がどの辺りで取れるか、たくさん取れるかという占いに使用されました。これは現在も天皇が代わられるときに儀式として続いています。 (写真右端が)先ほどお話した(金属文化の証とも言われる)金属製の羽口です。これは粘土で作った炉に空気を送る道具です。羽口はどのように使っていたのかというと、(イラスト)女性が鹿の皮の袋から空気を送っていますね。空気を送っている青い筒の先についているのが羽口なんです。空気を送って火の温度を高めて金属を鍛錬するということですね。当時これがあるということは鍛冶の炉があったということにもつながってくるわけですね。ですから石器時代から金属文化に移り変わる弥生時代の遺跡から羽口が出てきているということは非常に興味が湧いてきます。 (21:20) <堂山古墳群> 堂山古墳にも勾玉という石が出てきておりますが、古墳時代にはこのように(写真)古代の人々の工房があったのではないかなと思われます。 昭和43年の12月に寺川の地域の古代研究家の人たち地元の人たちが堂山古墳を発見されたわけです。当初何カ所か試掘して4回か5回目で小さな穴のところでカチッと当たったらしいですけれども、それが金属文化の破片であったと言われています。すぐさま大東市の教育委員会と大阪府の教育議会に連絡されて専門の考古学者が調査されたわけです。調査されるまでに寺側の住民の方に堂山古墳の樹木を伐採したりきれいに整地をする依頼がありまして私もその中で活動させていただきました。 全景を見ると発見の1号古墳の西側から見ると(写真)こういう形になっています。手前の大きなものは1号古墳の 円墳と言われているところです。頂上からすぐ下の辺りにあるのは円筒埴輪で69個並べられています。調査の中で発見されたんですが珍しい69というのはなぜなのかなというところも興味をそそるところなんですが、その上側にずっと尾根を上がっていきますと、集合古墳の2号古墳、3号古墳、4号、5号、6号、7号古墳というところまで調査されています。左側の写真は現在の堂山古墳で下から見るとこういう形になっています。 (写真は)考古学者が堂山古墳の発掘調査をされているところです。左側の置かれている石のところに見えるのは鉄の兜ですね。当時は恐らく木箱に入れて石を上に置かれてたんでしょうけれども木が腐り石の重みで兜もちょっとへしゃげた状態で発見されています。右側の石がずらっと並んでいますがここには鉄剣、それから鉄刀、矢尻なんかが発見されています。 中央の被葬者のところには勾玉その両サイドには短剣とか小刀なんかが見えますが発見されています。珍しいことにこの堂山1号古墳は金属文化が非常に多いということです。ということでこの豪族被葬者は河内湖を見下ろす、いわゆる大阪平野を一望にできるところの大きな勢力を持っていた豪族ではないかなと想像されます。 (写真は)先ほどの発掘調査の様子を側面から見たところです。(まだこの時には)この石の下から(遺物が)取り上げられておらず、測量など調査されている様子です。 25:56 (この写真は)その後発見された勾玉です。私も色んなところで勾玉見るのですが非常に色艶が良く加工の技術を優れています。これは翡翠(ヒスイ)ですが(技術的にいうと)金属が5の高度としたら翡翠は7と言われているので、加工をするにも非常に時間がかかったであろうと思われますし、それにこの穴なんですが見事に綺麗にあけているんですね。現在のようなドリルもない時代にこれだけ綺麗にあけているのは考古学の中でもまだまだ謎が多いなと思います。 26:41 これは(写真)鉄剣と鉄刀(直刀)です。 33:07里山自然環境ボランティア活動 ****************************************************************************************************** 【ぐっと盛り上げる観光・ノルディック・ウォーク・地域イベント・司会・Ustream中継】 NPO法人北河内をぐっと盛り上げる会 大東・四條畷をぐっと盛り上げる会 ノルディックウォーク・パフィン研究室http://onji-forum.net/
寝屋川・恩智川流域環境フォーラム 代表 尾崎あきゆき寝屋川・恩智川流域環境フォーラム 代表 尾崎あきゆき寝屋川・恩智川流域環境フォーラム 代表 尾崎あきゆき寝屋川・恩智川流域環境フォーラム 代表 尾崎あきゆき
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